私は映画でもテレビでも、ちょっと泣けるシーンを見ていると、もうやばい。
あっという間に、涙ポロポロ、鼻水ズルズル、ぐしょぐしょのティッシュがあっという間に山積みになってしまう。卒園式、卒業式、送別会なんかも、絶対にやばい。とりわけ音楽には心揺すぶられてしまう。何も始まっていないというのに、開会前のブラスバンドの演奏だけで、パブロフの犬のように涙が出てきてしまい、もうまともな感情ではいられない。まだ、開会式さえ始まっていないというのに、すでにポロポロ、ぐしゅぐしゅ状態。家族はそんな私の習性をいつも呆れ顔で見ているのだが、自然に身体が反応してしまうので仕方ない。お願いだから、その音楽をやめて~っていう感じなのだ。
こんな風に、感情がすぐに湧いてくる習性を持っていると、日常においてはただの困った人なのだけど、別の場面では結構役に立つこともある。
たとえば、私の場合、歌手をしていた時には、この習性を上手く活用して瞬間的に歌の世界に入り込んでいた。イントロが1小節流れるだけで、体ごと別世界にワープできる。たとえば、「ふるさとの山」というタイトルの歌のイントロが流れると、3秒後には、私は、心地よい夏山の緑の中でまさしく今、空を見上げている。そこはふるさとだから、胸がちょっとキュンとして懐かしさがこみ上げてくる。これは頭の中で起きているだけの想像上のことなんだけど、身体は現実で味わっているのと同じように反応する。現実には私には山のふるさとなんてないのだが、「自分のふるさとは山だ」っていう状態になりきっている。腕の内側の肌がひんやりした山の空気に反応してザワザワッとしてきたり、目の前には広い高原が広がっているから視線は自然と少し遠くを見つめるような目になっていたり、というふうに、生理的な身体の反応が実際に起きてくる。
歌手や俳優は、こういった人間のイメージ力を活用して架空のイメージの世界に入り込み、そこで架空のリアリティを感じ、そのリアリティを表現することで見ている人の心を動かすという仕事をしているのだ。おそらく、私が普段、涙もろいのは、歌手の仕事をしていたのが大きな原因だろう。イメージの世界に入り込み、感情表現する訓練を長年しているうちに、ちょっとしたきっかけでイメージと感情が引き出されやすい体質になったのだろう。歌手だったから、音楽に感情が紐づいていることが多くて、ちょっと音楽が流れると、それが引き金になってしまうのだ。
これは言い換えると、イメージ力というのは訓練によって鍛えることができるということでもある。私の場合には、気が緩んでいるときは、自分のイメージ力に翻弄されてしまって、すぐに涙ポロポロの情けない人になっているわけだが、意識的にコントロールをすれば、イメージ力を自分の味方につけることができる。
イメージ力を味方につけると何がいいのか。
自分の作ったリアリティに入り込みやすくなるってことだから、まず、演じることが上手くなる。
「演じることなんて普段ないですよ」と思うかもしれないが、人は毎日、自分の役割を演じているよね。社長は社長の役を演じているし、課長は課長の役を演じている。お父さんはお父さんの役を、恋人は恋人の役を演じている。だって、「~らしく」っていう言葉を使うとき、自分の中に理想のイメージがあって、それを演じようとしているってことだと思いませんか?
とりわけプレゼンなどの人前で話すことに関しては、演じることが上手くなると圧倒的に上達するはずだ。私は講師業をしているけれど、やはり自分が好きだな~と思う理想の話し方、表現の仕方を演じていると思う。図々しくても、いかに自分の作り出した架空のリアリティの世界に没入するかだ。そのリアリティが強ければ強いほど、人を巻き込む力になり、魅力のあるプレゼンターになるだろう。よく「知らないうちに〇〇さんの話に引き込まれました」というのは、話し手の作り出した架空のリアリティの世界に巻き込まれたということなのだ。どうだろう。こう考えると、イメージ力を磨くことは決して侮れない。
イメージ力を自分の味方につけたいと思ったら、まず、イメージが自分に与えている影響について、良く理解しておく必要がある。
私たちは日々、知らないうちに色々なイメージの影響を受けて生きている。
たとえば、日々暮らしている街や通勤路。毎日そこにいるだけで、そこを通るだけで、自分が意識をしないでいると、知らないうちに影響を受けてしまう。
日当りも風通しも良い気持ちのいい場所だったら、自然と良い影響を受けとっているので問題ないが、暗い雰囲気の場所だったらどうだろう。知らないうちに影響を受けて、自分の心まで暗くなってしまうのではないか。意識して気をつけていなくては、簡単にやられてしまう。
他にも私たちの心に影響を与えてくるものは、生活の中に溢れている。テレビ番組なんて無意識で見ていたらダメだ。テレビを無意識で見ていたら、自分の考えは、本当の自分の考えなのか、それともテレビの描き出したイメージが自分に影響を与えた結果の考えなのか、気づかないうちにまったく分からなくなってしまうだろう。
まず、こういったことを理解して、自分が接するべきイメージを意識して選ぶ必要がある。もし、お子さんのいる人だったら、子どもが接する可能性のあるイメージをしっかりチェックして、ある程度コントロールする必要があると思う。なぜなら、子どもは心の枠組み?ガードみたいなものが出来上がっていない分、大人以上にイメージの影響を受けやすいからだ。大人ならはじき返すことができるイメージでも、子どもははじき返せない。まともにその影響を受けてしまう。私は、子どもにオカルト映画を見せたり、暴力シーンなどを見せるのは反対だ。どれほど強くて悪い影響があるか分からない。
自分が接するイメージを選ぶということは、付き合う人、出入りする場所、通る道、身につけるものなど、生活そのものを一つ一つ選択するということだ。とりわけ付き合う人を選ぶ時には、気をつける必要がある。社会的に評価されている人であっても、実は、近づいてはいけない人であることもある。だから、社会の評価ではなく自分の評価で判断する。私はそういう善し悪しを判断する感覚というのは、人間は自然に身につけているように思う。自分が自分らしく生きていくために必要なものを、自然に選び取る力というのは、先天的なのか後天的なのか分からないが、誰しもある程度持っている。ただ、持っているのに使えていないことが多い。自分の直観よりも世間の評判のほうを人は信じがちだからだ。だから、自分の直観に素直に従って、嫌な感じのする人とは、たとえ社会的評価が高い偉い人であっても、付き合わないほうが本当はいい。自分の感覚を信じてあげよう。
自分が接したいと選択したものごとは、実体験として触れることができないとしても、頭の中で想像するだけでその影響をもらうことができる。良いイメージをリアルに頭の中で思い描けば、身体はそのイメージに反応し影響を受ける。私がイントロ1小節で簡単に山にワープできるのと同じことだ。イメージはリアルであればあるほど影響度が高い。そして、イメージのリアリティを高めるためにはイメージ力の訓練をすればよい。
私が知る限り、このイメージ力のトレーニング方法のうち、実績があり信頼できるものは演劇界で行われている「メソード」という手法だ。アメリカの演技指導者リー・ストラスバーグがロシアのスタニスラフスキーの理論を元に開発したもので、ジェームス・ディーンもマーロン・ブランドもマリリン・モンローも通っていたと言われるニューヨーク・アクターズスタジオで行われていた演技訓練がこの「メソード」だ。私は20代の時に、NHKアクターズスタジオに通って、メソードを教わった。どんなものかというと、五感の記憶を想像上でリアルに再現し、それに基づくリアリティある表現をするための訓練だ。コーヒーカップがそこにないにもかかわらず、コーヒーを飲む演技が上手い役者は、コーヒーを飲む時に感じるあらゆる感覚を再現するのに長けている。カップを持った時の指の感触、それを持ち上げた時の腕の筋肉への力の入り方の感触、ほのかに香るコーヒーの香り、口に持っていった時のカップの感触、口にコーヒーが流れ来んで来るときのその感触、味わい、温度。こういった五感の記憶をいかに空想上で再現できるか。それをまず訓練する。
リアリティのある表現というのは、二段階の構造になっていると私は思う。まず、自分がそのイメージにリアリティを持てないと表現の元ができないから、自分の内部で感じる感覚にリアリティを持つのが第一段階。第二段階は、自分の感じている感覚を素直に隠さず表現するということだ。この二段階を経ることで、演技は成り立つ。
人を巻き込む振る舞い、話し方、表現というのは、こういう仕組みになっている。第一段階は、自分が自分のイメージの世界に没入し、五感でリアルにそれを感じること。第二段階は、自分の感じている感覚を素直に隠さず表現すること。
イメージ力を高めることでできることは他にもたくさんあると思う。
それについては、また次回。今日はここまで。
説得力ある言葉も、その裏付けとなる考え方・イメージが自分に浸透して、はじめて情熱をもって語れ、その熱意が相手に伝わることで説得力になると思うのですが、通じる部分がありますよね。
返信削除佐々木さん。メッセージをありがとうございました。確かにそうですね~。自分でイメージできていないと、語れないですよね。>佐々木陽一さん>>説得力ある言葉も、その裏付けとなる考え方・イメージが自分に浸透して、はじめて情熱をもって語れ、その熱意が相手に伝わることで説得力になると思うのですが、通じる部分がありますよね。>----------
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